人は皆それぞれ独自の視点を持って世界を見ている。
他人の眉を整えるスキルに長けた妹は私の眉毛を「見るに堪えない」と評し、医学とりわけ筋肉に関する知識を豊富に持つ義妹からすれば、私は筋肉のバランスが悪く椎間板の飛び出た出来損ないである。閻魔的視点を持つ妻からすれば、私の行動の一挙手一投足は善か悪かに判定される。もちろん私の行動のほとんど全ては悪に分類され、私は常に罰せられるべき存在として家庭内で不動の地位を我が物としている。
当の私はというと、ものづくり的視点を我が誇りとしている。ものづくりなんて云うとゼロからイチを生み出す活動が花形のように語られるが、それは転職サービスの広めた嘘である。
そもそもクリエイティブというのはどのような人間の営みにも見られるものであり、プログラミングやデザイン界隈の人間だけが持つ魔法の力というわけではない。私の妻なんかもかなりクリエイティブである。悪とみなしたものに対する罵詈雑言、年年エスカレートする年貢(生活費)の取り立て方、私には到底こなすことのできない繊細な家事の手順。そのすべてがクリエイティブであり、まさに主婦業のパイオニアである。
もしもクリエイティブを語ったエンジニアやデザイナが目の前に現れたら注意して関わるようにと忠告したい。クリエイティブが神格化された人間にとってクリエイティブは非日常的な行為であり、クリエイティブから最も遠い所で生活をしている人々である可能性が高い。
私の云うものづくり的視点とはいったいどういった視点のことか。それは素直に目の前の現実を評価する視点のことである。
この視点は結婚生活でも大いに役立つ。
帰宅すると家具という家具が皆バラバラになって死屍累々という惨状。寝室からは妻の怒号が聞こえてくる。何事かと恐る恐る寝室を覗くと、妻はしきりに己の太ももを揉んでいる。「どうしましたか」私はできるだけ落ち着いた声で語りかける。「私の足のももが太いのです。最近の貴方の私を見る目を見てもそれは明らか。私の太いももを醜く思っているのでしょう?」
こういった時に男は口を開く前によく妻を観察しないといけない。もちろん私の目は精巧な画像検査機ではないので目で見ただけで妻のももが痩せたのか太くなったのか判別はつかない。ここで大切なのが先に書いた視点である。素直に目の前の現実を評価する視点を活用する。
まず妻の顔はさっきまでの怒号は嘘のように悲しい顔をしている。上目遣いで私からの返事を待っているのはよくわかる。素直に考えれば慰めを待っているのは明らかである。床に座ってへこたれる妻のまわりにメジャーや脱ぎ捨てられらた数年前のジーンズはない。妻のももが太くなったという事実は確認されたわけではないことがわかる。リビングに目をやると筋膜リリースに使われるローラーが放り出されている。昨晩はちゃんとしまってあったので、本日の努力が垣間見える。ここまで心を無にして素直に現実を観察すれば、後は己の愛を正しく伝えるのみで万事は解決する。
私はおもむろにズボンを脱ぎ捨てる。「見てみなさい。これこそが太くて醜いももではありませんか?それに比べて我が妻の白きももの美しいこと。さながら外の世界を一度も歩いたことのない高貴なるご令嬢のようではございませんか」
妻はうなだれてこちらを睨む。「貴方のような労働者階級のももと比べて何になりましょうか。まったく慰めになっていませんくてよ」ええいやかましいと私は妻をお姫様だっこの形で抱き上げる。「私は毎日のように貴女をこのように抱き上げていますからハッキリとわかりますよ」
妻は私に抱えられながらバタバタと暴れる。「そうでしょうとも。貴方はわかっているはずです。私のももは太くなり、醜く重くなったでしょう。さあこんな女は貴方様には不釣り合いですってよ。このまま津の海に投げ捨てて下さいまし。ももの重くなった私はきっと簡単に沈むことでしょう。」
私は妻の肩を強く抱きしめる。「貴女のももは昨日よりも柔らかく可憐でございますね。どうやら今日の筋膜リリースは入念におやりになったと見える。しっかりとその効果がでているようですね。それに、比べて頭の方がちと重い。自らのももに対する疑念がいっぱいに詰まっているのでしょう。はやくお捨てにならないと、そのうち頭痛がしてきて気分が悪くなりますよ。私が妻を海に投げ捨てるなんてことあるわけないではないですか。どうしても貴女が海に投げ捨てられたいとおっしゃるのなら、私も一緒に津の海にこの身を投げ捨てましょうぞ」
妻は目に涙をためて私を見上げる。「私のももは太くも醜くもないのでしょうか?」「世界一のももでございますよ。さあ、今宵は土用の丑の日です。ウナギでも食べに行きましょうぞ」「はい。行きましょう」
かくして家庭には平和が戻り、私と妻のささやかながら幸せな暮らしは今日限り保証される。
妻がどれだけ取り乱そうと先入観を捨てた落ち着いた観察眼を持ち、心の源泉から湧き出る愛情さえ枯れさすことがなければ、夫婦という蕾は何度でもきれいな花を咲かす。