世界から妻の怒りが消えたなら

草枕、恐妻家の芸術論

私が人生で初めて、コンタクトレンズを眼球に装着した日のこと。
日夜、せっせかと働き、空いた時間で本を読み、さらに余った時間で肉体的鍛錬に励み、最後の一握りである閑暇すらも妻のご機嫌とりに捧げる私は、多忙を極めている。
だから、その日は日曜日であった。


イオンの眼科でコンタクトレンズを選んだ。まだ齢三十にも満たない私であるから、目に入れられるほど可愛い孫はもちろん存在しない。私の目に入ったことのある物と言えば、己のくりんとカールしたキュートなまつ毛か、底意地の悪い花粉くらいである。そして、どちらも必ず苦痛をもたらす。そんな私であるから、コンタクトレンズの装着はたいへんに怖かった。あんな怖い思いをしたのは久しぶりであった。
己の涙で頬をべちゃべちゃにして、診察料とコンタクトレンズの代金を支払った私が眼科からでると、妻が待っていた。イオンのエスカレーターの隣に必ず置いてある肌色のソファに座って、スマートフォンをのぞき込んでいる。妻は、ちらりと視線を上げて私を見た。その目には怒気が宿っていた。
妻は、まるで年貢を回収しにきた大名のように、私の持つ紙袋を奪って、コンタクトレンズの品定めをした。


「これ、高いやつじゃん」
「ごめんなさい」
「私と同じやつだよ?」


同じで悪いのか。悪いのだ。
コンタクトレンズの装着に手間取って、長いこと妻を待たせすぎたのだ。


私は、散々謝って、妻の機嫌をとった。
長い時間をかけて、仲直りをしたが、少し疲れた。私の心に、暗い感情がモヤモヤと煙いたとき、どこからともなく声がした。


「よお。お前、困ってるな?言ってみろ。願いを叶えてやろう。」


私もついにおかしくなったか。自分が情けなくなった。こんな幻聴まで聞こえるほど弱っているとは。
自嘲した私であったが、試しに呟いてみた。


「妻の怒りを消してくれ。穏やかな妻と暮らしたいんだ。」


目を覚ます。寝覚めの良い朝だった。
隣を見ると、妻の布団がない。はて、布団を干したのか?
よく見ると寝室から妻の物が一切なくなっていた。
リビングにも、キッチンにも、どこにも、妻の痕跡がない。
「あれだけあった鍋をどうしたんだ?」
スマートフォンから、妻の連絡先が消えていた。
おかしい。お義母さんの連絡先も見当たらない。
嫌な予感がした私は、すぐに着替えて妻の勤め先へと行ってみた。


「はあ。弊社には○○という従業員はおりませんが」


受付の女が言った。
どういうことだ?
そのまま、車を走らせて愛知の義実家へ行った。
お義母様は、私のことを知らないようだった。
困った顔で「娘に連絡をしましょうか?」と聞かれた。
なんだか悪い気がして、断った。
お義母様との別れ際に、これだけはと思って聞いてみた。


「今も、〇〇病院で働いていますか?」


お義母様は、微笑んだ。
どうやら、私のことを元患者だと思ったらしい。


「いえ。○○先生と結婚しまして。昨年、退職しました。」


私は、妻と私で生活していた家に戻った。空っぽだ。
もう、結果は分かっていたが、SNSで妻を検索してみた。
豪華な結婚式の写真や、海外旅行、ブランドバッグ、私なんか逆立ちしても敵わないようなステキな夫の写真であふれていた。
なにより、妻の笑顔が、満開の桜のように咲き乱れていた。


結婚式の予定もなくなってしまった私は、しばらく一人で暮らした。
そのうちに、11年ぶりと言われる記録的な雪が降った。
家の前の駐車場で転んだ。一人だ。
水を忘れてきたから、凍ったフロントガラスがなかなかとけない。
寒い車内で一人凍えながら、左隣の駐車場を見た。
12月に妻と一緒に購入した妻の車はなかった。ただ、そこには雪が積もっていた。


もうわかった。私は、どうしようもない阿保だった。
妻は、妻であったから、私と一緒になってくれたのだ。
車内で一人、うずくまって肩を揺らしていた。
作業着の袖が濡れているのは、雪ばかりのせいではなかった。


「妻を、私のどうしようもない怒りんぼうな妻を、返してくれ」


私は、ひとりごちて目をつむった。

眠い。なにか、ドシドシとうるさい。


「たいちゃん!はやく起きて!」

意識が少しづつ覚醒する。
目を覚ますと、寝室の扉のむこうで、妻が廊下を忙しなく往復している。
私は布団からでて、噛みしめるようにゆっくり、身支度を始める。


「たいちゃん!雪よ!はやく!水かけたりしないと出勤できないわよ!起きて!」

外にでると、あたり一面が真っ白であった。

「11年ぶりの大雪らしいよー」

駐車場の方から妻の楽しそうな声がする。
真っ白な雪の絨毯に、小さな可愛い足跡が伸びていた。その足跡はまっすぐ、私と妻が12月に一緒に買いに行った妻の車のそばまであった。
妻は、その車のフロントガラスに手際よく水をかけて、フロントガラスの氷をとかした。
トコトコと走って、私の車にむかう妻。
私の車のフロントガラスの氷がとけていく。


私は、たまらず妻に駆け寄った。
道半ばで、私はスリップして転んだ。
妻がケタケタと笑う。
私も笑った。私の肩が上下に揺れる。
笑いがおさまったあとも、肩はしばらく揺れていた。


「そんなに痛かった?」


気づくと妻がそばまで来ていた。
私の顔をのぞきこむ。


私の頬が濡れていたのは、雪解け水のせいばかりではなかった。

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