ただ、チーズバーガーを食べるだけ

ただ、チーズバーガーを食べるだけ

その日曜日の朝は、津駅の西口に妻を送りとどけた瞬間から始まった。

もちろん、妻が僕の愛車から降りる四十分も前から、生物学でいうところの「生命活動」は始まっていた。

妻に文字通り叩き起こされた僕は、めずらしく機嫌が悪かった。麦わら帽子を被ったヒグマと観覧車にのって街を見下ろす夢はなかなかに楽しかったからだ。

幸運なことに、麦わら帽子を被ったヒグマは僕を食べなかった。

イライラしながらシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、カリカリのトーストを食べて、歯を磨いて、お気に入りの黒のTシャツと黒のパンツを穿いて、またコーヒーを飲んで、金木犀の香水を三回プッシュして、水色のボーリングシャツを羽織って妻と車に乗り込むまでの間に、僕は妻に十三回も舌打ちをした。

その間、妻は僕にむかって二十五メートルプールがいっぱいになるくらいの罵声をあびせた。

それから僕の運転で津駅に到着するまでに、二回も信号に捕まって、老人を二人と犬を一匹ひきかけて、空のペットボトル一本とビニール袋ひと袋をペシャンコにした。

要するに、散々な朝の始まりだった。

だから、妻を車からおろしたとき、僕は胸をなでおろした。ようやく、一日が始まる。

妻も、そんな顔をしていた。

ロータリーに車をとめて、ATMで現金をおろす。

「何はともあれ、チーズバーガーを食べなくては」

妻のいない日曜日の朝、一日の始まりに僕が思うことと言えばそれくらいだ。

とにかく、ハンバーガーは妻のいないうちに食べておかないといけない。

彼女はハンバーガーを食べないと誓っているから、食べるなら今のうちだ。

そう、「ハンバーガーを目の前にするまでは、決してハンバーガーを食べない」それが彼女の設けたルールだ。

ルールは、絶対だ。

ぼくは、エンジンがかけっぱなしのグレーのLEXUS LS500を横眼に通りすぎて、汚れひとつないホワイトのベンツゲレンデを遠目に見ながら、美しいブルーのボディが目を惹く三菱のデリカD:2に乗り込む。

乗り込むなり、ホワイトムスクの優雅な香りに包まれる。高ぶっていた感情が徐々に落ち着く。

無駄のないハンドルさばきで車体を旋回させ、ロータリーを出る。

カーナビが目ざとくandroidを見つけると、つまらないJ-POPがかかる。チンピラみたいな恰好をした連中が踊りながら女々しい歌詞を歌いあげる。妻の選曲だ。彼らは三代目まで続いたのだから、きっと末代まで続くのだろう。

マクドナルドのドライブスルーに入ると、朝だというのに元気いっぱいな女性店員がパネルのむこうから注文をきいてくる。

「チーズバーガーを単品で二つと、コーラのLを単品で一つ」

注文はそれだけだ。朝マックの時間だろうと関係ない。

とにかく、こんな日の始まりはチーズバーガーでないといけない。

現金とバーガーを交換して、車をすぐそばの駐車場にとめる。

妻からの「いってきます」のlineに、スタンプでかんたんに返事をする。もちろんハートがいっぱいのスタンプだ。

仲直りしたわけじゃない。はじめから喧嘩なんてしてないんだ。夫婦は喧嘩なんてしない。

車の中には相変わらずつまらないJ-POPが流れていて、妻からのlineはひっきりなしに届く。

チーズバーガーにかじりついて、遠慮なくコーラを喉に通すと、最高に気持ちがいい。

だいたいそうやって、日曜日が始まる。