ぴえん、という言葉を知っているだろうか。泣いている様を表す擬態語だそうだ。にこり、の対義語であると私は解釈している。
それはいい。よくわかる。
しかし、ぴえんのその先があると云う。
ぴえんで物足りないと「ぴえんこえてぱおん」と云うらしい。
ぴえんをこえると、ぱおんになる。
なぜ、ぴえんをこえると、ぱおんが出てくるのか。私は長い間、その問題と目を合わせないようにしてきた。
ぱおんという響きには、どこか人をバカにしたような、もしくは、ぴえんから立ち直ったような、ふてぶてしさを感じる。
ぴえんを超える悲しみ。ではなく、ぴえんを越えた先にある、ぱおん。のような気がする。そんな予感だけを持っていた。
その疑問は、私の頭の片隅でジッとこちらを睨み続けていた。
ある日、ある言葉と出会う。
それは、森見登美彦の太陽と乙女を読んでいた時である。
小説家の井伏鱒二は、自作について、「意地悪の現実に反省を促すためのラッパを吹いたつもりであった」と述べているらしい。
その一文を読んだとき、私の頭の片隅から、ぱおーんと、象が鳴いたような、ラッパを吹いたような、間抜けで、妙に力強い音が聞こえてきた。「ユリイカ!」私は叫んだ。アルキメデスとは違い、裸で踊ることはなかったが、喜んだ。
ぴえんを乗り越えると聞こえてくる、ぱおんという音は、意地悪な現実に反旗を翻す、勇気ある者を鼓舞するための、鼓笛隊の吹くラッパの音ではなかろうか。
または、意地悪な現実に負けじと、自ら吹き鳴らすラッパの音ではなかろうか。
ぴえんを乗り越えるのに、必要となる脚力は間違いなく、ユーモアである。ぱおんはユーモアの象徴であろう。
私も、妻にぴえんを強いられている。しかし、すぐさま持ち前のトランペットを力強くぱおんと吹いてみせる。
それは、強さであり、愛である。
このブログの読者諸賢にも、私の吹いたぱおんの音が届くことを願っている。
それは、私からの愛に他ならない。