「頼りになる夫」

草枕、恐妻家の芸術論

人と人の関係と云うものは、実に曖昧だ。

部下が上司を励ましてやって、満足に仕事が片付いたり、親が子に甘えて、初めて親子関係が良好になったり、愛の言葉を交わした二人が、誰よりも憎み合っていたり、距離の近い友よりも、遠方の友の方が理解がある、なんてことはよくある。

部下や上司、親に子、妻と旦那、どれもただの言葉であって、剥がしてみれば、どの関係も人と人である。そう思えば、上司だってたまには、励まされたくて当たり前だろうし、親だって、子が成人すれば、少しくらい甘えてもいいだろう。妻と旦那だって、調子の合わない日があって当然である。

目の前に居る人間のラベルはいくらでも自由に貼ればいい。例えば、幸せそうに笑う妻は「俺の自慢の女」であるし、PMS中の妻は「怒りトンチキ」、沈んだ上司は「がんばる中年」であって、想い人は「夢にまで見た」という具合に、ラベルは自由自在に貼ることができる。

もしも、自分の生き方に納得がいかないなら、それはラベルの貼り方を間違っているのかもしれない。

上司の判断、行動に納得がいかない時、部下であるはずの自分が、上司を評価している。私も未熟であるから、気づかぬ間にそういった間違いをしてしまう時がある。安易に「現場がわかっていない上司」とか貼っていないだろうか。

PMSで怒り狂って、自暴自棄になった妻に「感情的で、話のわからん女」なんてやっていないだろうか、「なんとかして愛情を確認したい女」とか「とにかくなだめて欲しいらしい女」くらいにしておけば丸く収まる。

相手には、なるべく優しいラベルを貼ってやりたい。

そして、自分にはなるべく、奮い立つようなラベルを貼るのがよろしい。

「なんとか辻褄を合わせて、上司の手柄を作る部下」だとか「妻が落ち着くまで、ただ抱きしめる夫」だとか、自分の行動が、人として一つ大きくなるようなラベルを、自分には貼りたい。

なにやら立派なことを云っているような手記になったが、これは戒めである。

昨晩、「怒り狂った女」と「妻を見下した夫」であった。恥ずかしいかな、それはある意味では「お似合いの二人」だった。

「頼りになる夫」のラベルが剝がれないよう、願いを込めて、この手記を残す。