ダイエット宣言

ダイエット宣言

日曜日の朝、心地よい夏の風に頬を撫でられて、僕は目覚めた。

寝返りをうって隣を見ると、妻の姿はない。リビングからカチャカチャと食器の音がする。

僕は起き上がると、ぼやけた視界のまま、廊下の壁を頼りにリビングへと向かう。

リビングで、ソファに座った妻がNetflixオリジナルシリーズ「ブリジャートン家」を観ながら、たい焼きを食べていた。

我が家のわらしべたい焼きストックが尽きることはない。いつだって十個以上は冷凍保存されている。

妻がたい焼きのしっぽをくわえたまま振り返り、「おふぁよう」と言う。

僕は「おはよう」と、返す。

座っている妻の正面に置かれた皿の上に、たい焼きが三個も四個も置いてあるような気がする。

僕は、まだ視界がぼやけているのかなと思って目をこすってみる。やはり四個、解凍されたたい焼きが皿の上に置かれていた。

妻は、目を細める僕を見て、

「眠気ナマコだね」と言った。

それじゃあ、なまこだよ。ヒトデやウニの仲間じゃないか。と心の中で呟いてから、

「眠気眼(ねむけまなこ)だよ。ナマコは海の生き物だよ」と教えてやる。

妻はキャハハハと笑ってから、急に真顔になって、ブリジャートン家に視線を戻す。ほとんど無意識的な動作でたい焼きを手に取って口に運ぶ。コワイ。ヒィ。

僕は冷蔵庫から大内山牛乳を取り出して、コップに注いで飲んだ。

キンキンに冷えた大内山牛乳が、勢いよく喉を下って胃に突っ込む。たちまちに僕の頭も冴えてくる。

「ねえ、昨日さ」と妻に呼びかける。

なに? と、妻は僕を見て首をかしげる。

「いや……」

昨日、ダイエットするって言ってなかった? 出かかった言葉を飲みこんで、

「今日はどこに行く? 朝ご飯は先に食べちゃったんだね」と訊いた。

「だって、たいちゃん起きるの遅いんだもん」と、妻が口を尖らせる。

時計を見ると、9時半。たしかに、僕の起きる時間が遅い。妻が待ちきれないのも当然だ。

「今日はどこかに行くかい?」と妻に訊く。

「たいちゃん、何か食べたいものある?」

あるよ。あるけどさ。五つか? 五つもたい焼きを食べた後の女性と食べに行けるご飯ってなんだ? いやいや、昨日の晩、ダイエットするって言ってなかったか?

「ラーメン食べたいんだけど」

「いいね、行こっか」

妻の返事はよどみない。

「あそこ、津新町の楽人行きたいんだけど」

二郎系だぞ? さすがに却下されるか。

「いいね! 久しぶりだね」

あくまで即答、快諾である。

てな一幕が、この前の日曜日にあった。

さらに補足すると、この日、二郎系ラーメンを何食わぬ顔でたいらげた妻は、そのままの勢いでヨネカワクレープに行き、たっぷりマンゴーのクレープをたいらげた。

妻に限った話ではないと思うのだけれど、女という生き物は年がら年中「ダイエットしなくちゃ、まじヤバーい」と言っている。

僕の気のせいだろうか。違うと思う。

食べるたびに後悔し、ダイエット宣言をする。

なぜか夫の食事制限の計画を、嬉々として語りだす。自分のダイエット計画よりも厳しい栄養管理を試みようとする。

妻は、ダイエット宣言をした後に必ず、ドカ食いをする。食い納めのドカ食いらしい。

ドカ食いした日の翌日は、さすがに制限するだろうと思いきや、まだ食べる。前日のドカ食いのせいで胃が拡がっているから、翌日はいつも以上に腹が減るみたいだ。

とにかく、何かと理由をつけて食べる。仕事で嫌なことがあったから、先週は頑張ったから、職場の人に誘われたから、とかだ。

破壊的な、ほとんど恐竜のような食生活が落ち着くのは、ダイエット宣言から四日後。

都市を壊滅させたゴジラが海に帰っていくように、妻はゆっくりとベッドに沈む。

しかも心が折れたわけじゃない。ただ胃がもたれているだけだ。

そこから二日間くらい、食べ過ぎた~と呻きながらベッドで過ごす。

ただし、胃はもたれていても、心の食欲は別である。妻の心の食欲が尽きることはない。

頭まで布団をかぶって、YouTubeでドカ食いする女の映像を観たり、インスタグラムでベーグル専門店を調べたり、マヌカハニーやオートミールを買いあさったりする。

胃の調子が戻り、元気を取り戻すと、再びダイエット宣言をする。

そして、またドカ食いをする。

突然だけど、アメリカのキリスト教信者は、いったいどういった理屈で不倫をするのだろうか。と、気になったことはないだろうか。

彼ら彼女らは、教会で神に赦しをこうことによって、赦された気になるらしい。罪を打ち明けて祈れば許されるのである。

不倫の罪悪感は、あっさり無くなるらしい。

妻のダイエット宣言にも、似たような理屈が働いているように思える。

妻はきっと、抑えられぬ食的な欲求に負けることを察知すると、神に、夫に、同僚に、友人に、凍らせたたい焼きに、ダイエット宣言をする。

「私は、厳しいダイエットに挑みます。悪しき食欲を飼いならし、整った暮らしをしてみせます。最後に今夜だけ、お腹いっぱい食べる事を赦し給え。ラーメン」

妻にも、僕に対する女心みたいなのは一応あって、平日の仕事終わりに、僕と家で食べる夜ご飯はけっこう我慢する。

(というか、日中、僕のいない所で食べ過ぎてさすがにへばっている)

だから、僕だけは年中しっかりダイエットしていることになる。

おかげでもうすぐ腹筋が割れそうだ。妻の栄養管理のなせる業である。僕は妻に感謝しないといけないだろう。

感謝の気持ちを込めて、仕事終わりにはコンビニスイーツを買って帰ることが多い。

妻はいつだって美味しそうに食べて、またダイエット宣言をする。