いったい何が我々を置き去りにするのか

結婚式前夜

「急いていないと、何事も仕損じる」そんな社会に、皆が身を置いている。

「急がば回れ」なんて悠長なことを云っていては、置いていかれる。いったい何が我々を置き去りにするのか、経済であろうか、あるいは季節か、あるいは友人、あるいは恋人であろうか、寂しい。置いていかないでくれ。

「妻よ、遠慮せず置き去りにしてくれ」

云ってみたが、もちろん聞き入れてもらえない。運命の赤い糸とやらで縛られた私を、妻という暴走列車が引きずり回す。

以前よりも、仕事に身が入る。労働時間も長いし、責任の範囲も種類も変わった。日々を忙殺されるに申し分ない社会人生活を送っている。最近、ストレスが胃にくる。それでも、忙しくなる以前よりも今の方が楽しい。不思議だなと思っていた。

例えるなら、電車の窓から外を覗いて、通り過ぎていく電柱がハッキリ見えるようになったような、ご飯の食べ方を、よく噛んで食べようと思い立ってみて、実践してみると、今までテキトーに飲み込んでいた素材の味があったことに気づけたような、そんな感覚だ。

もしや、私はついに落ち着いたのではないか?大人になったのではないか?そう思った。けれども、それは間違いだと気づいた。

ゆっくりと歩くようになったから落ち着いたのではなかった。どうやら、以前よりも、一生懸命に走るようになったから、少しだけ「何か」に置いていかれずに済んでいるらしい。

私の事なんてシカトして走り去っていくその「何か」に必死に追いすがる。

あんなにも、無鉄砲に、わちゃわちゃと駆け抜けた二十代の前半なんて比べ物にならないほど、必死になってその「何か」を手繰り寄せている。

何でもないLINEも、少しの電話も、たまに飲み交わす酒も、すべてが尊い。手放し難い。

野鳥の飛翔写真が好きだ。写真なのに、物語を感じる。止まっていない。

忙しなく過ぎる日々の幸せを、何とかして「動き」を残したまま、書き記したい。友人との思い出や、妻に虐げられても、強く生きようとする私の生命を、飛翔写真のように残したい。あわよくば、面白いよと褒められたい。

面白いよと感想を送ってくれる友人には、感謝している。

君たちから連絡があると、忙しなく働く私も、立ち止まって振り返る。書き記していなくとも、楽しい思い出は山ほどあった。