冒険家シャクルトンと私の避暑地

松尾式自分探索

いまだかつてこれほど暑い夏があっただろうか。

いよいよ地獄からの使いが、閻魔大王としての職務を放棄した妻を迎えに来たのかと思った。

閻魔大王が不在の地獄とはどのようなものであるか、亡者が行列をなしているのではないか。

妻に帰らなくていいのかと聞いてみたら「お前も地獄について来るか」と聞かれたので、丁寧にお断りした。

それにしても暑い。アイスが食べたくなってコンビニで買ったが、開封した途端に蒸発するように溶けだしたので急いで食べた。知覚過敏が辛いし、急いで食べてお腹は冷えるしで散散であった。

私は高い家賃を払っていい家に住んでいる。フローリングも壁も真っ白であるし、廊下の電気は人感センサーで通る者を優しく照らす。お風呂には横長の大きな鏡があるし、洗い場に至っては、ぎゅうぎゅうに詰めれば横綱が四人は入ると思われる。妻が私も家賃を払うからと切望したので、そこまで云うなら仕方あるまいと今の豪邸に住んでいるわけだが、不思議と家賃は私が一人で払っている。私が少年の頃憧れたルパン三世は云っていた。嘘は女のアクセサリーであると。知ったことか。コンチクショウ。

豪邸は意外と快適ではない。シロナガスクジラが同窓会を開催できそうな広大なリビングは広すぎて冷房が効かない。私の部屋にはエアコンがないので、リビングからなけなしの冷気を扇風機で私の部屋に供給している。もはや冷房の涼しさなのか扇風機の涼しさなのかよくわからない程度の体感温度である。

仕事は忙しいし、外は暑いし、地獄仕込みの妻の身体も妙に熱い。これは破廉恥な意味ではなく、物理的に普通に熱い。原因は不明であるが、妻の身体には何かしらの内燃機関が内蔵されているようだ。

ともかく、どこもかしこも暑かったり忙しかったりタイヘンな具合である。

私は心身ともに避暑地を求めている。避暑地と云えばキャンプであろう。

先日、私はキャンプが好きかと聞かれる機会があった。

少人数なら好きだと、なんとも煮え切らぬ返事をしてしまった。何故であるか後日考えてみた。

私にとってのキャンプとは、夜景、静寂、虫の声である。大人数のキャンプではそれは叶わない。BBQをしにキャンプに行こうと云われれば、お祭り騒ぎだドンとこいとなる。しかし、キャンプと聞いて最初に思い浮かべるのは静寂とくつろぎであるわけだ。だからとっさに少人数なら良いと考えたわけである。私にとってのキャンプとは温泉に近い。自然に少しばかりの人工物をお邪魔して、都合よく自然の心地よさだけを味わい癒されようとする慎ましさこそ、温泉とキャンプの妙味であると思う。主役は自然の静寂である。

最近、妻に隠れて水面下でコッソリある計画を練っている。家の中でのソロキャンだ。実行は妻の不在時である。

私の類まれな演技力と妄想力をもってすれば、家の中でテントを張りSpotifyで森の音でも流せば、それは立派なキャンプになり得る。冷房はガンガンにつけるので、もちろん避暑地として機能する。私は少し肌寒い夜が好きなので、冷房の温度はエアコンの能力いっぱいまで下げるつもりである。寒さに震えながら、カップラーメンを食べる。体温が低下しないように寝袋に入ってブリトーのようにじっとして夜をしのぐ。

たまに夜の寂しさに耐えかねてもぞもぞとテントから抜け出すかもしれない。見上げても星空は見えない。真っ白な品のある天井が見えるばかりである。毛布にくるまって、Netflixのブラックホール特集を観て壮大な宇宙を想う。宇宙が壮大すぎて、ブラックホールが不思議すぎて怖くなるかもしれない。怖くなったらまたテントに戻ってブリトーになる次第である。ブリトーになった私は、冒険家シャクルトンと共にエレファント島へ辿り着く旅路を夢に見るだろう。

過酷な夜が明け、日が昇り、新しい一日を告げるラッパが鳴るとき、私はまた一つ大人になっていることだろう。冒険が男を磨く。家中でのソロキャンプを達成したあかつきには、冒険家シャクルトンと肩を並べる立派な男になっているだろう。

善は急げである。私は単身、Amazonへ足を踏み入れた。