松尾式自分探索

その後の、お尻

「自分探しの旅に出ようかな」

そんな気持ちが消えてから、情緒が落ち着いた気がする。大人になったとか、夢を諦めたとか、結婚したからとか、そんな話じゃない。
自分探し、それは己の内に内にと進んでいく作業だ。それでも何故か、

「自分探しの旅に出る」

なんて言って、海外へ行ってみたり、山へ登ってみたり、外に外に、遠くに遠くに行ってしまう。
どちらかと言うと、目を逸らしている気がしないか。

仮に、海外で自分を見つけたら、どこかの山の頂上で、自分を見つけてしまったら、怖くはないだろうか。
もう一人の自分も、自分を見つけることになる。

「俺もお前を探していたのだ」

ともう一人の自分に言われて、気を失う。
目を覚ましフラフラと家に帰ると、自分の家にもう一人の自分がいる。

「本当の私はここにいる!」

叫んでも、誰にも声は届かない。もう一人の自分がこちらを見て悪戯に笑う。

「俺みたいに生きたかったのだろう?代わりに生きてやるさ」

書いていたら怖くなってきた。旅先で私を見つけても、私は見て見ぬふりをするだろう。

話が脇道にそれた。
遠方で見つけた花を、持って帰ってきて、上手に育てられるだろうか、環境が合わなければ、すぐに枯れてしまうだろうし、それは新しい自分であって、なりたい自分ではあるかもしれないけど、今の自分ではない。
遠方のキレイに見える花よりも、自分の足元で、健気に咲いている花に目を向けては如何か。

「そんな花が、見当たらないから困っている」

そう言われるかもしれない。そんなことはなかろう。
少なくとも、このブログの読者には、つまりは私の友人には、そんな人はいないと断言できる。私が保証しよう。皆、ステキであった。

さて、では悩めるあなたに「松尾式自分探索」を伝授しよう。
ズバリ、普段通りに生活をするだけである。
拍子抜けしましたか?もう少し、話を聞いてください。
行先を探す前に、今いる場所を確認して欲しいのです。憧れを見つける前に、今すでにステキなあなたを認識して欲しいのです。
普段通りの生活に中に、無数の自分が居ることに気づいて欲しいのです。

朝の歯磨きで口がスッキリしただけで、何だかいい気分になる自分。
洗ってつるつるになったお皿に満足する自分。
面倒だと思いながらも、働きだすと、案外楽しんでいる自分。
頭で考えても、自分なんてなかなか掴めないのです。
ただ、無心になって生活をしている時、たまに自分を見つめてやればいいのです。
何気ない生活に、思いのほかたくさんの自分が居るものです。
どれもきっとステキでしょう。
遠方に行けば、今いる場所がよく見えるでしょう。それも良いですが、それに頼っていては、しょっちゅう遠くへ行かないといけませんし、今の生活に対して、否定的な印象を拭えません。
生活の中から自分を見つけられると、楽ですよ。

最後に、これだけは危険だと言う自分探しを伝えておきましょう。
それは「読む」ことです。
文章は、言葉は、あたなを納得させて、どこかへ連れて行ってしまいます。
あたかもそれは、自分で辿り着いたような錯覚をあなたに持たせるでしょう。
しかし、それはあなたの内側から見出された答えではないのです。
あなたが、自力でそこに辿り着いたわけではないのです。

自分で辿り着いた答えと、そうでない答えを見極める。それが一等、大切です。