何も成さない男

何も成さい男

読者諸賢ごきげんよう。
私のブログが更新されるのを待ち望んでいたであろうと思われる。

あまりにも長いこと更新していなかったので、巷では妙な噂が吹聴されていたらしい。


「アイツはついに奥さんにブログが見つかって、ボロ雑巾のように捻りあげられたらしい」

「アイツは結婚した途端に奥さんに従順な、なよなよ男になって悪口を言う気力もないらしい」

「奥さんに理由もなく捻りあげられて、文字をうつこともできないほどの重体らしい」

根も葉もない噂は津駅を中心に瞬く間に広がって、西は大阪から東は東京まで、むやみやたらに人々の心配を我が物にしていたらしい。そんなことになっているなんて思いもしなかった。世間がそんなことになっているなんて、知らぬは私ばかりであったらしい。心配ばかりかけて。あゝ、ワタシって罪な男ね。

まず、私は元気である。奥様(あえて敬称)には初めからブログを見られている。だから、今さらブログが見つかってどうこうという話にはならない。たしかに奥様(やはりあえて敬称)には日ごろから捻りあげられているが、奥様(以下、ずっと敬称)は私を捻りあげることに関してはプロフェッショナルであるから、捻りあげ加減を間違えて、私をひん死の重体にするようなこともない。

では、なぜブログを書かなかったのか。可憐な文学乙女やしとやかな女性を中心に、老若男女皆々がブログの更新を今か今かと待ちわびているのに、なぜブログを書かなかったのか。

単純に忙しかったからである。

私も気づけばアラサーである。(これは衝撃的な事実である)
その昔「私たち、四捨五入したらアラサーよ」と言って私を仰天させたのは妻である。四捨五入するならハタチかミソジの二択である。

「コイツは年齢を小数点以下までカウントしているのか?」と考えざるをえなかった。

話がそれたので戻す。
私も気づけばアラサーである(驚くべきことなので二回言っておく)。世間でいう働き盛りだ。忙しすぎて目が回る。

気をつけたいとは思っているが、大人になるとうっかりして、忙しさを理由に楽しいことや、やりたいことが後回しになる。

働き盛りだとか書いてみたものの、どうして忙しかったのかを考えてみると、仕事ももちろん忙しかったが、それよりも個人的な活動による忙しさの方が大きな要因であるように思えてきた。

思うところがあって、通信制ではあるが大学に通うことになった。京都芸術大学の書画コースだ。ハッキリ言って課題については舐めていた。まさかこんなにも大変だとは思わなかった。

働き盛りとバラ色のキャンパスライフを両立するのはほぼほぼ不可能に思える。

唯一の救いでありかつ、唯一の残念な点は、書画コースの生徒は老人ばかりで、バラ色のキャンパスライフとは程遠いということである。私のキャンパスライフは、梅色とか、松色とか、黒飴色とか、そんなところである。

同級生の集合写真はさながら公民館の寄り合いのようであった。

ブログもやりたい、働き盛りたい、ゴルフもする、本も読めば、映画も観る、ベースが弾きたい、目にうつるほぼ全ての物に興味がある。箸が転がらなくたって、生きているだけで面白くって仕方がない。

私の墓石には「何もかもに手を出したあげく、まったく何も成さなかった男」と記されるであろう。

それでいい。

そもそも何かを成すとはいったいどういうことか。

「男に生まれたからには、何かを成したい」

そう思うのが元気な男の子であれば普通である。

しかし、もはやアラサー。
あんなに大好きだったファミチキを食べるのも面倒くさい。胃がもたれる。

「男は三十過ぎてから」なんて言うが、続く言葉は「急に老いを感じる。」であろう。

何かを「成す」なんてことがあるのだろうか。
何かを成したと思っても、いずれは誰かがもっと良いように成していく。

5年10年と使われるような機械やシステムを作っても、いつかはもっと良い機械やシステムが作られて更新されていく。

エンジニアリングでもスポーツでも、何でもそうだろう。

いつかはよりよく更新されるのだから、「成した」なんてなかなか言えないだろう。

ただただ楽しめばいいじゃないかと、思うまでもなく思って生きていられるようになったのは最近である。

その点、自分のブログを持つということは特別に素晴らしいことに思える。

なにせ、更新できるのは私ばかりである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA