映画「君たちはどう生きる」をどう楽しむか

ジブリ映画を映画館で観る。それは、生きている間に何度も経験できることではない。
一切、宣伝のされない映画を映画館で観る。今の時代にあって、その経験はあまりに貴重である。


宮崎駿監督作品「君たちはどう生きる」を観に行ったのは、七月十五日で、公開日の翌日であった。

映画館でジブリ作品を観るのは、四回目であった。
一回目は「千と千尋の神隠し」、二回目は「猫の恩返し」、三回目は「風立ちぬ」どれも私のお気に入りである。
「ハウルの動く城」は映画館で観ることができなかった、今になって悔やまれる。

良い映画とは、映画館で出会いたい。

映画館で初めて「千と千尋の神隠し」を観る前から、「もののけ姫」や「となりのトトロ」をビデオで観ていた。それでもやはり、私にとっての”初めてのジブリ”は「千と千尋の神隠し」である。


映画館のあの椅子に座って、千尋ら家族と一緒にあのトンネルをくぐった瞬間から、私の心のある一区画は、ジブリ世界のための空間になった。
私は時々、その空間に遊びに行っては、ジブリ世界のあれこれに想いを巡らせた。

最新作「君たちはどう生きる」のラスト、眞人少年と一緒に現実世界に帰ってきたとき、私の心の中のジブリ世界が、いつのまにやら崩壊していたことに気づいた。

そのことに気づかせてくれたのは、青サギである。
彼は眞人少年に友達だと言われて照れたが、少年との別れのシーンで「眞人はいずれ俺のことを忘れる」と予言する。
そのセリフによって連想されたのが「エルマーの冒険」を日本に広めた翻訳家、渡辺茂雄の言葉「実在しない生き物が子どもの心に椅子を作り、それらが去った後に実在する大切な人を座らせることができる」である。

私の心の中のジブリ世界はとっくの前に崩壊してしまっていた。
かわりに、ジブリ世界があったその場所には、実在する大切な人たちがのびのびと暮らしている。

「君たちはどう生きる」は私のために作られた作品ではなかった。

もしも少年時代にこの作品を観たらどう感じただろうか。きっと、私が初めて「千と千尋の神隠し」を観て、あのトンネルをくぐった時のような不思議な感覚に囚われたことだろう。
幸いにも、当時には解説サイトなんてものはなく、好きなだけ自分なりの解釈を持つことができた。
大人になったからと言って、心の中に非現実的で自由な空間を、持っていけないわけではないだろう。
そういった空間を、工夫して、大切に守ることだってできるはずである。それが許されないほど、大人の生活は厳格ではない。ようである。
解説サイトなどは極力避けて、不思議な世界を不思議なまま、大切に心の中で手入れしてやる。
意識的にそれくらいやってみせるのが、大人がジブリ作品と向き合ううえで、欠くことのできない作法であろう。

どんな解釈にも不正解はない。長いこと考えて入れば、自然と正解に近づくものである。
とは言え、大人は大人である。
一度観ただけで、感動するべきところはいくらでもないといけない作品でもあった。

眞人の父は良い父である。後妻の気持ちもわかってやらなければならない。眞人少年と、母親との最後のやり取りで、何故「眞人少年はイイ男なのか」ちゃんと理解せねばなるまい。

もしもこの作品を観た大人が、なんだか訳の分からないうちに終わったなと感じるならばきっと、現実世界でもっと一生懸命に生きなければなるまい。

ものすごく寂しくも感じるが「君たちはどう生きる」と問われた少年少女にとっての、手本となるのが大人である。

彼ら彼女らと一緒の目線で、ジブリ作品を楽しむことはできなくなった。

できることと言えば、少年少女らが空想の世界から現実の世界へと帰ってきた時に、少しでも美しい現実世界を見せられるよう心掛けることくらいである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA