ぼくが初めてベースを弾いたのは中学のときで、MONGOL800の小さな恋の歌をすぐに弾けるようになって、ポルノグラフィティのバンドスコアを買ってあっけなく挫折して、それから高校三年生の文化祭まではロクに弾いていなかった。
文化祭のときに使ったベースは、会社の後輩にあげた。レッドホットチリペッパーズのベーシスト、フリーが設立したエレキベースブランド、FLEABASSのオレンジ色のベースだった。ヘッドに隙ッ歯のロゴが入っているやつだ。
今持っているベースはフェンダーのプレシジョンベース。白のボディにはダメージ加工がしてあってビンテージっぽいデザインが良い。
ちゃんと触っていなかったとは言え、ベース歴を中学からカウントすると、けっこうな年数になる。
それにしては下手くそだから、ちょっと真剣に練習しようと思い立って、最近は一日に三十分から一時間くらいは練習するようにしている。
練習はシンプルで、弾けないフレーズを弾けるようになるまで弾く。それだけだ。
弾けないフレーズを一音一音ゆっくり弾く。赤ちゃんが這うみたいに、たどたどしく。
とにかくワンフレーズの指の動きを覚えたら、メトロノームをうんと遅くセットして、それに合わせて弾く。
BPM120の曲でも、BPM60くらいから始める。
徐々にテンポを速くしていくと、いつの間にかワンフレーズを正しいBPMで弾けるようになる。
そんなふうに、新しいワンフレーズをどんどん弾けるようにしていく。
10フレーズくらい弾けるようになると、一曲を通して弾けるようになる。
これがけっこう楽しい。達成感もなかなかだ。
BPM(ビーピーエム)とは、ビーツパーミニッツの略で、言葉の通り、一分間の拍数を表している。
BPM60なら、一分間に四分音符を60回鳴らす。
つまり曲のテンポのことだ。
BPM、楽譜にはたいてい明記されているし、スマホのメトロノームアプリでいつだって確認できる。
しかし、今でこそ。である。
メトロノームが普及する前に、こんなものはなかった。
かわりに、楽譜には感覚的な速度記号が記されていたらしい。
アダージョ(ゆっくりと)、アンダンテ(歩くような速さで)、アニマート(元気に、活き活きと)と、演奏の速度は演奏家の解釈に任されていた。
社会は、定量的な情報を伝達することで効率よく発展してきた。
音楽だって、再現性を高めるためには、アダージョなんて言わずにBPM45と伝えたほうがいいし、料理の味付けだって、塩ひとつまみよりも0.5gと伝えた方がいい。
ただ、そういった情報伝達には弱点もあって、捨てられる情報が多い。
だから、Liveの感動は越えられないし、おふくろの味はけっして再現できない。
数値にすると便利だけど、便利になった分だけ、失うものも大きいのだ。
人生の出来事と年齢をセットにして考えるのも、同じ理由で良くないだろう。
人生のテンポは、けっこう速い。
ぼくは来年の三月で三十歳になる。
今現在の僕は、子どものころに思い描いていた未来予想図に比べるとだいぶと地味だ。
でも、振り返ってみれば人生のどの時点もけっこう幸せだったなと思う。
人生のBPMは人それぞれだろう。
そもそも、ぼくにとっての四分音符はなんだろうか。
外食の回数だろうか、妻の手料理を食べた数だろうか、ブログの更新頻度、旅行の回数、仕事の失敗、成功、本を読んだ冊数、笑った回数、泣いた回数、怒った回数、お腹を壊した回数、うんちをした数、心拍数、誰かを笑顔にした数。
色んな音符を色んなリズムで刻んでいる。
外食の回数なら、ビーツパーウィーク。
妻の手料理なら、ビーツパーデイ。
仕事の失敗、成功なら、ビーツパーアワー。もしかしたらビーツパーミニッツ。
BPL、ビーツパーライフ。
ぼくは、一生の間に何拍の四分音符をうつだろうか。
何歳で一人暮らしをして、何歳で病気にかかり、何歳で結婚して、何歳で役職が上がって、何歳で子に恵まれ、何歳でマイホームを建てる。
とてもじゃないけど、定量的に数える気になれない。
人生のテンポはきっと、昔の音楽家みたいにしか表記できないだろう。
走るように生きている人、歩くように生きている人。
テンポ・ジュスト(正確なテンポ)で生きている人、テンポ・ディ・ヴァルス(ワルツのテンポ)で生きている人。
今、歩くくらいの速度で生きている僕の書くこのブログが、誰かの一拍になりますようにと願って、下手なキーボードを弾いている。