オリーブの首飾り

その後の、お尻

”No one is loved like musicians.”(ミュージシャンほど愛される人はいない。)言ったのはフラン・レボウィッツ。

彼女は言い切った。

「ミュージシャンは、他の芸術家とは違う」と。

「音楽は思い出の中心なの」と彼女は言う。

ぼくも十代の頃に聴いていた音楽を耳にすると、途端に頭の中で当時の映像が再生される。

音楽が記憶を引っ張り出してくる力は強力で、制御できるものじゃない。

「ミュージシャンが愛されるのは、気持ちや思い出を表現する術をくれるから」とも彼女は言った。

甘酸っぱい思い出だけど、ぼくも昔、好きな女の子にオススメの曲を集めたCDをやいてプレゼントしたりしていた。

まあ、そこまでしなくても、これ聴いてみてよ。ってメールで紹介したりしていた。

この曲はあの子、この曲はあの子、って、誰にだって何曲かは、当時の気持ちを思い出させてくれる曲があると思う。

恋じゃなくたって、曲と思い出はセットで残る。

カラオケに行くたびに、友人が歌っていた曲。なんどもデュエットした曲、小学生の頃、親の運転する車の中でかかっていた曲、落ち込んだときに自分を奮い立たせるために聴いていた曲。

音楽は、強力なパワーで記憶を呼び起こす。

それがたとえ……思い出したくない思い出だとしても。

もしも、トラウマが音楽と結びついたら?

ぼくは、音楽が好きだ。ジャンルは問わない。ミュージカル、JAZZ、クラシック、ケルト音楽、ヒップホップ、ロック、EDM、なんでもござれのスタンスで、Spotifyのお気に入り楽曲数は2145曲。

一曲だけ、トラウマと強く結びついている曲がある。

ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」だ。

マジックショーで定番の曲だ。

昔々、小学生の頃、一生懸命にマジックの練習をしていた。

えんぴつを消すマジックでウケたのをキッカケに、本屋さんでトランプマジックの本を買って練習を重ねていた。

努力はしたけれど、トランプマジックは、小学生が学校で披露するのに向いていなかった。

練習に練習を重ねて、休み時間に披露しても、ウケるのはせいぜい二回。

三回目以降はギャラリーが増える。意地悪なやつが後ろから覗き込んできたりする。

「後ろから見ないで!」と怒っても、

「種もしかけもないんだったら、後ろから見られたっていいじゃないかー」とか言ってくる。

「後ろから見るならやらない」とぼくが言うと、

「ほらなー、やっぱり見えないように変なことしてるんだー」

とか言ってくる。

あっけなく、ぼくは泣いた。悔しくて泣いた。後ろから見られたら、マジックでもなんでもないのだ。小学生は残酷である。

家に帰って、ボロボロになるまで読み込んだ「トランプマンの超不思議トランプマジック」を大粒の涙をこぼしながら破って捨てた。

それから約一年後、僕はもう一度、マジシャンになることを志した。

おじいちゃんおばあちゃんに連れられて行った九州旅行で、強力な武器を手に入れたからだ。

「スポンジボール」これでぼくは教室で一番のマジシャンになった。

ぼくは教室で、堂々と披露した。たしか参観日だった。保護者の前でマジックを披露した記憶がある。

手に握ったスポンジボール、息を吹きかけると、ボールは二つになる。また吹きかけると、ボールは三つになる。

ムニャムニャとなにやら唱えると、ボールは一つになり、次の瞬間には五倍ほど大きなボールになり、また縮んだかと思えば、ウサギの形のスポンジになり、アヒルの形になり、やがてすべては消える。

スポンジボールマジックは、後ろから見られようが関係なかった。

イリュージョンのすべては、ぼくの小さな手の中で完結していたのだ。

さて、ここからがトラウマである。

すっかり教室で一番のマジシャンになった気でいた僕は、気分はミスタ―マリック。いつだってハンドパワーを披露してやるぜ。って感じだった。

その保護者のうちの一人が、ぼくに言った。

「ぜひ、今度の子ども会で披露してくれ」と。

「いいよん」と、自信満々のたいせい君であった。

子ども会。他校の小学生なんかも集まってクリスマス会をしたり、劇を観たりするやつだ。

子ども会の会場は大きかった。まあ、簡単に言うと市民ホールってやつだった。

相当な人数が来ていた。多分、百人以上の三百人未満である。

とにかく、小学生の僕からしたら、とんでもない人数だったことは確かだ。

ぼくはメインホールから外に出て、色んな通路を真剣に見ていた。

「あのへんの通路にテーブルを置いてもらって、休憩時間に披露しようかな」とか考えていた。

ちょっとしたヒーローになる自分だって想像していた。心の中で呟いた。(もうすぐ会えるよ。トランプマン)と。

やがて始まりのブザーが鳴り、メインホールに集まれとアナウンスが鳴る。会場は暗転、ステージがライトアップされる。

ひとつひとつ、演目は進んだ。

プロの卵か?みたいなクオリティでサックスを吹く少女、プロじゃん?大人の人形劇。

ステージの上で繰り広げられるパフォーマンスに見入りながら、ぼくは思った。

(いつかぼくも、今よりもっとマジックの腕を磨いて、あのステージの上に立つんだ!待ってて!トランプマン!)

しかし、その時は、”今”だったのだ。

大人の人形劇が喝采を受けながらハケると、司会が高らかに声をあげた。

「続いては、マジックショ~」

ヒュー!ヒュー!

歓声が上がる。ぼくも、ヒューヒュー言っていた。

(なんだ、プロが来るなら言ってよ、もっと練習してきたのに。プロの後じゃ、通路でやってても誰も見にこないよなあ)

マジックでおなじみの、あの曲がかかる。

ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」だ。

待っても待っても、誰もステージに来ない。おいおいトラブルか?と思っていたら、例の、ぼくを呼んだ保護者が、ぼくの背中を叩いた。

え?

「ほら、たいせい君、行って」

そいつは、満面の笑みだった。(ソイツでもいいだろ……)

とにかく、真面目なぼくは、勇気を振り絞ってステージに立った。

市民ホール、スポットライト、満員の客、無情に鳴り続ける「オリーブの首飾り」、ステージに一人、ポケットに、スポンジボール。

ちゃんとお辞儀をして、とにかくスポンジボールのマジックを披露したぼくを抱きしめてあげたい。

ボールが二つに増え、三つに増え、また一つになり、そして大きくなり、また小さくなり、ヒヨコの形になる。

どこかから聞こえた。

「えっ、あの子なにしてるの?」

ぼくの心はポッキリ折れて、お辞儀をしてステージから走り去った。

後にも先にも、あんな思いをしたのはあの一度きりだ。

今でも、「オリーブの首飾り」を聴くと、あのステージから見た光景を思い出す。

やっぱり、ぼくはけっこう頑張り屋さんのいい子だった。